無意味な人生

音楽が聞こえなければ
踊っている人は
狂っているようにみえるだろう


人生は無意味なものだ。
皮肉ではなく、人生は本来意味付けをするようなものではないということ。

僕はダンサーであり、振付家だ。
しかし災害や戦争などこの世界に蔓延する悲しいニュースを見るたびに踊りなんてなんの役に立つのだろうかとよく思っていた。

しかし人生の後半を迎えて理解したのは、前半が前方に向かって走ることならば、後半はその場で踊り続けることなのかもしれないということだ。

前に向かう時には夢や理想という名の目標が必要だ。しかし夢の場所にいける人はごくわずか。運良くその場所に辿りついても思っていたのと違っていたこともままある。そもそも夢が見つからないまま大人になる人だっているし、道半ばで亡くなる人だっているだろう。

では目標を持てなかったり、たどり着けなかった人生とは意味のない人生だったのだろうか?夢のない若者を人生の不具者のように扱うことは正しいことなのだろうか?さらに言えば震災や戦争や病気で突然未来を奪われ、それぞれの「目的地」に達することができなかった彼らの人生に、その「死」に意味はあったのだろうか?

遺族にとってはその「死」に向き合うことで何かを考え直したり、転機になったりすることは確かにあるだろう。だが、当の本人はどう思うのだろうか?

現実には意味のない死が延々と続いてきたのが人類の歴史だ。そしてそれは人生に意味なんてないことを表しているのではないか。

人は生まれ、成長し、恋をして子を残し、そして死んでいく。消えては生じ、生じては消えるこの綿々と続く生命の営み。人生とはそのなかで今を精一杯生きることだろう。瞬間に流れてくる音楽に合わせて身体を動かし続けるダンスのように。

生み出しては消えていく意味のないステップ。どこにも辿り着かない運動の連続。目まぐるしく起こる創造と消滅。誕生そして死。

8年前、まわりにいる多くのダンサーが己の無力感を感じた。直接支援をしている自衛隊、食べ物や燃料を届ける物流、街を復興させようとする建築業などの活躍に比べ、生活の余剰で成り立つ娯楽を生業とするダンサーの存在意義を自ら問い直した時だった。

直接支援にいったダンサーもいた。公演にいったバレエ団もあった。
僕は長い年月をかけ、そんな時にこそダンサーが必要とされるのだと理解した。

それはどんなに未来が見えない状況でもステップを踏むように人生を切り抜けること、今日一日をなんとか踊りきること。絶望の縁に立つ人々にその生き方を伝えることがダンサーの役割だと感じた。

失敗や後悔、恥ずかしい思いは誰でも沢山ある。だけどその時は、その瞬間に流れた音楽に合わせてみんな必死に踊っていただけだった。うまく踏めないステップ、転んだこともあった。だけどこの先も音楽がなる限り踊り続ける。そしてリズムがかわればそれに合わせて踊りを変えるだけだ。

ダンスの本質が踊ることそれ自体ならば、人生の本質も生きることそれ自体なのだから。
無意味である人生を生き抜くように、意味なんかないステップを楽しく踏み続ける。

だからみんな、踊り続けよう。
生という音楽が止まるまで。

HIROYUKI IGUCHI

バレエ振付家・教師 井口裕之のホームページ クラシックバレエ・コンテンポラリーダンスのクラスや振付作品の紹介をしています。

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