ガンジス
23歳のときにインドにバックパッカーでいった。リハーサルが急に10日なくなり思い立って飛行機をとりインドへ。
カルカッタに到着した時は夜中。不安なので宿まで同行させてほしいという日本人と一緒にホテルへ向かう。まあ、旅は道連れって言うし一緒に泊まるかっ!となり、結局旅の半ばまで二人で行動をしていた。
彼は東大の学生で外務省への就職が決まって卒業までやることがないから旅行にきたらしい。
ぼったくりガイドに二人でだまされたり、ガンジス川で一緒に朝日を見たりしたのに、もう名前も覚えていない。今頃は結構なポストまで上がってきているのかな。
言わずもがなだけどガンジス川はヒンドゥー教の聖地。ヒンドゥー教徒は死ぬ前にガンジス川までたどり着きそこで灰にされることを望む。インド中から列車やバスで、あるいは徒歩で人生最後の巡礼の旅にでるそうだ。
幸運にもだどりつけた老人たちは、早朝の礼拝、沐浴を日課に川岸の細い路地で自らの死を待つ。
僕たちはボートを貸し切りまだ暗いうちにガンジス川へ漕ぎ出した。日の出とともに始まる大音響の礼拝と沐浴、カラフルなサリーに身を包んだ女性達、岸を詰め尽くすほどの信者たちに圧倒される。やがてガイドが岸辺にある火葬場の一つにボートを近づけると、櫓の上で荼毘にふされている遺体があった。脇に立っている男が遺体を棒一本で巧みにひっくり返す。
その瞬間、真っ黒に焼け焦げた身体から沸騰した血液が血しぶきとなって口から吐き出された。
彼がどんな人生をおくってきたのか、どのようにしてそこに辿り着いたのかは知る余地もないが、敬虔な信者としての人生のフィナーレを異国の若者に目撃され、その人生感を変えてしまったとは思いもしないだろう。
現世では肉体を重要視してしまうが、死後を扱う宗教では魂に重きを置く。肉体は死んでしまえば殻みたいなもの、殻に執着してはいけないというように。
しかし彼は死を迎えた肉体により強烈にインパクトを残した。黒焦げの抜け殻を世界に晒し、灰になってガンジスに流される行為をもって肉体というものが魂に対して劣ったものではないと証明したと感じた。
自らの死に方を選択した彼は、死ぬことにより強烈に「生」を生きたのだ。
「肉体」を使い切ることによって。
輪廻とは少し違うけど、彼の人生の一部は確実に僕に受け継がれたと感じた。
「武士は死ぬこととみつけたり」の葉隠を愛した三島由紀夫を思い出した。
0コメント