ビッグ・ベアー2
前回に引き続き「穢れ」について。
穢れの反対は清浄だ。清浄とは濁りを許さない。それは「正義」を連想させる。正義とは主観的な面があり、その枠組みから外れたものを悪となす。悪は許すまじ、我らが正義の鉄拳を加えるのだ。
インド神話で力の神インドラに闘いを挑んだ正義の神アシュラが最後に魔神に落とされるというのは、自分が信じる正しいことが第一になり汚濁に住む弱いものを認められない「正義」の危うさに警笛を鳴らしているのかもしれない。(諍いの原因はインドラにあったのにもかかわらず)
傷ついた人しか他人の痛みはわからないのと同じように、穢れをもつ人間にしか感じられない他者に対する慈しみの心。
穢れたとは心に優しさが生まれたということ。
写真 岡本昌夫
江戸時代の狂歌に
“白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋ひしき”
というのがある。あまりにクリーンな世の中じゃ窮屈で住みづらく、多少汚れがあっても自由でエネルギッシュな世界を懐かしむって感じだ。
穢れを知るとは人間を知ること。他人を許す優しさを知ること。
“ドブネズミみたいに誰よりもやさしい
ドブネズミみたいに何よりもあたたかく
リンダリンダ …
もしも僕がいつか君と出会い話し合うなら
そんな時はどうか愛の意味を知って下さい”
-作詞 甲本ヒロト
福島第一原発のある大熊町に捧げたビッグ・ベアーの話でした。
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