創作は無意識への旅

創作をやり続けている意味をふとした瞬間に考えるけど素晴らしいといわれるような立派な理由がみつからない。誰かのためにとかいう社会的な動機もない。芸術は社会に貢献しているとは思うが、作っている当人にはほとんどそんな気持ちはないのではないか。


僕にとっての創作は対象であるダンサーのためというより創作者の個人的な体験である。それは三ツ星レストランに食べにいったり、世界の絶景を見に行ったりというような個人的な体験に近い。当然そこには社会的貢献度はない。

僕は踊りという出力方法で自分の内部にあるなにかを目に見える形にする。作りたい何かモヤモヤしたものがある時もあるが、たいていは踊りが先にできてしまい後からそれを眺めているうちに自分が表現したかったものが何かを理解する。卵が先か鶏が先かっていうとほとんど鶏が先にきて、「ああ、あれ鶏の卵だったんだ」ってなる感じだ。

意識化では表現したいものなんて何にもない状態でも、創るというアクションを起こしたのは無意識化になにかかある(ような気がする)。この二つの世界の橋渡しをしてくれているのが音楽だ。なんとなくこの音楽で踊りを作りたいという動機があり、微かな煙を辿るように音楽に導かれて無意識化にアクセスする。
そういえば村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」でも主人公の二つの世界を繋いでいたのは音楽だったな。たしかボブ・デュランの「風に吹かれて」だったような。

無意識化にあるものをダンサーの身体を通して目に見えるものにし、何度も何度もそれを眺めようやく何を表現したかったのかを理解する。この超個人的な体験の為に創っているのだと感じる。
ふーん。こう書いてみるとなんだか十分立派な理由にみえるな。

自分を探したい人は何か創ってみたらいい。自分以外の媒体を通して見るときに自分が何者かがわかると思う。


HIROYUKI IGUCHI

バレエ振付家・教師 井口裕之のホームページ クラシックバレエ・コンテンポラリーダンスのクラスや振付作品の紹介をしています。

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